「もっと困れ」:field 洲崎一彦


出典 Irish PUB field

ライター:field 洲崎一彦

前回の「もっと困れ」に対しては、それはどういう意味なのか?という異論も多いと思います。が、当世の若者たちからすれば、私ら年配者のこういう小言は、「このネット時代の便利さを駆使できない老人が、ただただ不便だった昔の話を持ち出して何か意見をするということは、便利がダメということなのか?」だから、自分達に、「もっと困れ」と言ってるのか?と受け取られても仕方が無い部分が確かにあると思います。

事、アイルランド音楽についてもそうです。私は名だたる諸先輩たちには遅れを取りましたが、1990年ごろにその存在を知り、レコード店をまわって数少ないアイルランド音楽のLPやCDを探し出してはむさぼるように聴いていました。それらは、ただ偶然、私の目に触れて、ただ偶然にその音楽が耳に飛び込んで来た。今の感覚で言うと、客観的な情報も比較検討も、何の熟慮も無しのランダムな獲物だったのです。つまり、間違った情報や印象をそのまま信じてしまったり、半分以上を思い込みや想像の産物としてのアイルランド音楽像を頭の中に作って来てしまったと言えるわけです。

そういう私たちの小言は、正確な情報で武装した当世の若者たちからすれば、「それ、間違ってますよ」で、一巻の終わり。

そこで、私たちの心の叫びは、「間違ってても、何でも、ワシらはそうやって楽しんで来たのじゃ!」「猫を犬だと思い込んで可愛がって来たのは確かに間違っている。が、コイツが可愛いのは間違い無いのじゃ!」

ここの、ギャップはなかなか埋めるのが難しい問題なのですね。これは、アイルランド音楽に限ったことではないでしょう。すべての分野で、発生しているギャップなのではないかと思うわけです。が、今はここで、社会の世代間ギャップの議論を広く展開しようなどとは思っていません。

とりあえず、目に付くのは、目の前の音楽に関する話です。

かつて、シンセサイザーが登場した時には、既成楽器ではあり得ない音色が出ることに驚愕した。その奇抜な音色に飽きた頃には電子音を生楽器の音色と置き換える技術が確立してしまう。そんな音にも飽きた頃には各楽器の発声や減衰のニュアンスまでもがシミュレーションされ生楽器との違いが曖昧になって来る。デジタル技術でまったく雑音を排した音が普通になると、昔の録音技術でそれが精一杯だった汚れた音(今の基準では)を懐かしむ風潮が現れ、せっかくキレイな音をわざと汚すような録音技術まで登場する。

そして、それらをコンピューターを駆使して、1人でバンドサウンド、いや、オーケストラサウンドまで作れてしまうということになり、世の中のバンドの意味が曖昧になって来る。そこに加えて、昨今ではAIが登場して、作編曲演奏録音のすべてを人間の手を離れて自動生成することが出来るという所まで来てしまった。

確かに、ものすごいことが起こって来たのです。昔は、1人の人間が一生のうちに、楽器の習得から始まって自分の音楽を形作るところまで到達できるケースは本当にごくわずかだった。それには、多くの人間の協力が必然だっただけに、それだけのことをするにはその音楽がそれだけの人間を動さねばならなかった。それが売れるという事態を作り出し経済的にも協力者が集まる土壌を作らねばならなかった。それが、音楽産業という巨大産業に発展していったのでしょう。
 
が、今は上記の如く、それ相応の機器に投資をすれば、個人で音楽を作り上げネットに垂れ流すことが出来る。この過程には他の人間の協力が一切必用ないわけです。

かつては、音楽の形を成したものは、自動的に多くの人々の支持と協力が必然という構造があったのが、今はその構造が完全に崩れてしまっている。

つまり、音楽的欲求に目覚めた人が、音楽を作るところまでの過程が驚くほど「便利」になった。もちろん、自分の欲求どおりの音楽を具体的に形作ることができるという部分では、この「便利」は、昔の人間からしたら驚異的です。夢です。が、この先の道がプツンと途切れるわけです。せいぜいが、ネット空間に垂れ流すぐらいしか出来ない。

いや、これでももう、すごい事なのです、ネット空間に放り込めば、不特定多数の人々の耳に届くのですから。が、多くの人が体験しているように、これはある意味幻でしかない。その可能性があるという幻でしかない。余程の偶然が重ならない限り本当に不特定多数の人々の耳に届くということは現実的にはほぼ無いのですから。作る方も聴く方もそれは極個人的な趣味として完結してしまう。

多くの人々の結びつきと広がりが全く生まれない構造。これは、お金になるならないということを言ってるのではありません。1人の人間の音楽的欲求が多くの人々の結びつきと広がりを生むという、この構造が人間の文化を作るのであり、個人で完結する個人の趣味のひとつひとつがどんなに優れた内容のものであっても、それが、人間の結びつきと広がりを生まない限り文化にはなり得ないと、私は思う。
 
「便利」はもちろん悪いことでは無い。「便利」をどのように使うかも人間の力ではあります。しかし、この「便利」が人間の文化形成の構造を破壊しようとしている。

だから、若者たちよ。「便利」ばかり追うのはやめて、「もっと困って」ください、という小言になるのですね。せっかく、目覚めた音楽的欲求なのですから、人々を巻き込んで、摩擦など恐れずに論争をして、時にはケンカもして、「文化」を作りましょう!と。

そして、これは、回り回って、何回か前のこの誌上で私が展開した、「音楽のある場」の価値にもつながるお話なのではないかと思うのです。

生来、引きこもりの私が何をとち狂ったか、この4月~6月に遠方に人生初のライブツアーに出かけた体験が強烈だった。。。ただ、それだけの事なのですが。。。笑(す)